PASS THE BATON vol.02:香林亜衣子 [前編]

モンゴルから西麻布へ、貫いた理念が輝く
――鮨こうりん 女将 香林亜衣子さん
―前編―
「鮨屋の女将」と「アパレルブランドの代表」――
世界一「美味しい」が研ぎ澄まされた街、東京。中でも西麻布は、地球上のあらゆる美食がひしめき合う、まさに食の聖地です。この地で日本文化を体現する存在といえば、やはり「鮨」をおいて他にありません。西麻布交差点にほど近いビルの4階に、静かに暖簾を掲げる「鮨 こうりん」。柔らかな光に包まれた店内には、慎ましくも気高い空気が流れています。その凛とした空間の中に、今回お話を聞かせていただく亜衣子さんはいました。
微笑まれると、こちらまでつい微笑み返してしまうような柔和な笑顔の亜衣子さん。着物姿がサマになる、まさに私たちが理想とする女将そのもの。ですが、彼女が歩んできた半生を紐解くと、その笑顔の裏側に隠された、あまりにもタフで型破りな経歴、そして情熱の物語がそこにはありました。
実は亜衣子さんは『鮨 こうりん』の女将という顔のほかに、もう一つの顔があります。それは、最高級のモンゴルカシミヤ製品を展開するブランド「TANILAG(タニラグ)」の代表。2010年に法人を立ち上げたのですが、それまでの彼女のストーリーは、まるでドラマのような起伏に満ちたものでした。
エリートへの道か、モンゴルの深淵か
10代をアメリカで過ごし、世界中に友人を持つ彼女。そんなグローバルな視点を持つ亜衣子さんの運命が動き出したのは、大学生の時に訪れたモンゴルでのことでした。
当時の彼女は、日本での大学生活に違和感を抱いていたと言います。「自分が描いていた人生が、違う方向に進んでいるのではないか」――。その葛藤から逃れるように、一度は慣れ親しんだアメリカへ戻ることを真剣に考えていました。周囲の友人たちも、日本へ帰国する者とアメリカに残る者に二分しており、中でも、現地に留まった友人たちは、口を揃えて「戻ってこい」と彼女を呼び戻そうとしました。
大学では経済を学び、MBAに行っていたこともあり、アメリカへ戻る準備を進めていた彼女にとって、そこでのキャリア再開は、最も合理的で輝かしい選択肢だったはずです。しかし、その帰国準備の最中、彼女は「モンゴル」という国に出会ってしまいます。
当時のモンゴルは、社会主義崩壊という歴史のうねりの中で、国全体が底知れぬ貧困の淵に沈んでいました。それまで世界中の、多様な現実を見てきた彼女が「どの国ともレベルが違った」と振り返るほど、当時の光景は出口のない閉塞感に満ちていたのです。機能不全に陥り、出口さえも見出せない国家の姿。それは、誰もそこに目を向けていない、モンゴルが世界から取り残された時代のことでした。
その凄惨なまでの貧困を目の当たりにした彼女の胸に、「ここで自分にできることがないか」という静かな、けれど熱い使命感が芽生えます。 国民の約3割が今もなお広大な大地で移動生活を送る、遊牧の国・モンゴル。人々が生きるために再び草原へと戻らざるを得なかった、そんな時代の裂け目のような場所へ、彼女は導かれるように、その中心部へと深く入り込んでいったのです。
物語は、一人の「大物」との出会いから動き出す
一度日本へ帰国した亜衣子さんでしたが、そのわずか3ヶ月後、リサーチのために再びモンゴルへと向かいます。搭乗時刻ギリギリ、ファイナルコールに背中を押されるようにして飛び込んだ機内。エコノミークラスの扉はすでに閉まっており、案内されたのはファーストクラスの入り口でした。足を踏み入れると、そこには屈強で“大きな”男たちがずらりと居並ぶ、異様な光景が広がっていました。困惑しながら自席に座った彼女に、CAさんがそっと声をかけます。「ファーストクラスへ移動されませんか?」と。促されるまま向かった先にいたのは、2000年代の相撲界を一身に背負ったあの第68代横綱、朝青龍関でした。
「なぜか気に入られてしまったんです(笑)」と、当時を振り返り屈託なく笑う亜衣子さん。その日は奇しくも横綱の誕生日。モンゴルで盛大なバースデーパーティーが開催される直前で、彼女も招待を受けます。しかし、「タキシードやイブニングドレスで着飾った方ばかりの中に、何も持っていない私が行くわけにはいかないから」と、その誘いを丁寧にお断りしたそう。普通なら、ここで物語は終わるはず。しかし、ここから彼女の物語は大きく展開していきます。
半年後、亜衣子さんの携帯電話に突如として表示された「横綱」の二文字。すっかりそんなエピソードも忘れていたころ、朝青龍関から連絡が来たのです。「なぜ日本の女子大生が、たった一人でモンゴルへ来たのか?」 そんな純粋な質問から始まった会話は、いつしか深い対話へと変わり、二人はすっかり意気投合。モンゴルで抱いたあの想いを、亜衣子さんは熱心に伝えたのです。
「もしまた行くなら、僕が力になるよ」
その力強い言葉通り、彼は自身のネットワークを通じて次々とキーパーソンを紹介し、彼女のためにモンゴルの厚い扉を次々と開いていきました。一人の大学生の情熱が、稀代のスターを動かし、カシミヤの道へと繋がる大きな潮流を生み出したのです。

角界との繋がりで開いた モンゴルへの道
日本の国技である相撲の世界において、今でこそ当たり前となったモンゴル出身力士の活躍。その先駆けとなり、両国の架け橋を築いたのが元小結・旭鷲山でした。
当時、彼は『旭鷲山基金』を設立し、母国の深刻な社会問題に立ち向かっていました。社会主義崩壊後の混乱の中、困窮した親元を離れ、『マンホールチルドレン』として地下での生活を強いられていた子供たちが数多く存在した時代。国さえも手を差し伸べられない過酷な状況下で、彼の基金はまさに、絶望の淵にいた人々にとって唯一の「光」だったのです。
基金が運営する建物の門前には、わらにもすがる思いでカゴに入れられ、そっと置き去りにされた赤ん坊が後を絶たなかったといいます。「ここへ行けば、この子だけは助かるかもしれない」——そんな切実な願いが交差する場所で、モンゴルのリアルな痛みが浮き彫りになっていました。
こうした背景の中、亜衣子さんは角界との繋がりを深め、頻繁に相撲部屋を訪れては現地の生きた情報を交換するようになります。周囲が華やかな学生生活を謳歌する中、大学院生だった彼女が見つめていたのは、モンゴルの大地が抱える深い闇と、そこに差し込む一筋の希望でした。
一歩、また一歩。彼女の足跡は、偶然の出会いを必然の使命へと変えながら、着実にモンゴルの核心部へと近づいていったのです。
情熱だけでは超えられなかった、10年前の混沌
こうして周囲の助力を得て、モンゴルでの起業を果たした亜衣子さん。しかし、いざマーケットに足を踏み入れた彼女を待っていたのは、出口の見えない模索の日々でした。
2004年。体制崩壊から10年が経過した当時のモンゴルは、まさに混沌の真っ只中。亜衣子さんはまず、日本からミシンを送り、設備投資を行って革製品の製造に乗り出します。ですが、そこで直面したのは「自分が作れないものは、教えることもできない」という高い壁。ホテルのショップで自社製品を販売するなど試行錯誤を繰り返すものの、結果は伴いませんでした。
モンゴルは、豊かな資源を持つ「素材国」。しかし、それを製品へと昇華させるノウハウが決定的に不足していたのです。自社工場の設立、そして度重なる挑戦。3、4年にわたる奮闘も虚しく、資金は底を突き、彼女は「挫折」という苦渋を味わうことになります。
名前も、キャリアも、資金も失った。 そんな絶望の淵で、彼女が選んだ次なる道。それはなんと、文明を離れ、自然と共に生きる「遊牧」でした。
行き着いた先は、1400km彼方の『遊牧』という空白
資金も尽き、文字通り「なす術」を失った亜衣子さん。失意のまま帰国するのかと思いきや、彼女が選んだ——あるいは運命に導かれた先は、さらに想像を絶する場所でした。
「なんでそうなっちゃったのかな(笑)」
そう明るく笑いながら彼女が振り返るのは、なんと4年間に及ぶ「遊牧生活」です。
「パスポートを持っていたら帰っていたはずだから、きっと失くしていたんでしょうね。当時の私は、おそらく外務省の行方不明者リストに載っていたと思います」
さらりと語られる言葉の重みに、聞いているこちらは絶句するしかありません。ポケットには10円もなく、言葉も通じない。頼れるのは、伝手をたどって行き着いた遊牧民の一家だけ。モンゴルの夏は、昨日まで30度を超えていたかと思えば、翌日には急転直下、氷点下の銀世界へと変わります。
「自分がどこにいるかも分からない。だって、遊牧ですから。ウランバートルからは1400キロほど離れていたんじゃないかな」
文明から隔絶された、何もない荒野。命を繋ぐのは、凍てつく大地から汲み上げるわずかな井戸水だけ。ただ「春を待つしかない」という極限状態の中で、彼女は4年という歳月を過ごしました。
そしてある日、ボロボロの姿で日本大使館へと現れた彼女を見た職員たちは、悲鳴にも似た声を上げたといいます。「鈴木(旧姓)亜衣子がいた!!!」と。
「大使館で亜衣子のことを知らない人はいない」と今も語り継がれるほどの行方不明事件。救出後、当時の大使が差し出してくれたのは、日本を感じる一杯の納豆だったとか。
「本当に、なるようにしかならないのよね(笑)」
極寒の地で生死の境を彷徨った経験こそが、今の彼女の、どんなトラブルも包み込んでしまうような柔和な品格の源流なのかもしれません。

命を食み、風を見る――遊牧生活が教えてくれた真理
では、亜衣子さんは遊牧生活の中で、何をしていたのか。そこで出会ったのがモンゴルカシミヤだったのです。カシミヤ山羊の世話をし、どんな風にこの人たちが生きているのか、素材であるカシミヤをどうやって作っているのか、動物たちとどう向き合っているのか、全部自身の目で見たかったのです。
そして、そこで彼女が知ったのは、綺麗事ではない命の等価交換でした。 モンゴルには、家畜を殺して肉や皮を得る際、日本語の「屠殺」に当たる言葉は存在しないといいます。そこにあるのは、生きるための神聖な儀式。「血を一滴も地面に落としてはならない」という掟があります。そして、男の子が初めて自分で育てた羊を自らの手で屠(ほふ)る成人式の儀式。一番悲しくて、怖くて、辛い経験を乗り越えてこそ、一人の男として認められるのです。
動脈を素早くとらえ、苦しませることなく即死させる。その一瞬に、動物への最大の敬意が込められているのです。女性がその場面を見ることは禁じられているため、亜衣子さんは離れた場所で、山羊たちが苦しまずに命を終えることを、祈るように待っていたと言います。そして、捧げられた命は一切の無駄なく、すべてが糧となります。生きるために最小限の命だけを摂取する。それが、彼らの命に対する真摯な作法だと知るのです。
かつてアメリカで過ごした頃、動物愛護の観点から肉を食べない生活をしてきた彼女。ベジタリアンやヴィーガンという選択は難しいことではありませんでした。十分に栄養があり、種類が豊富な食生活の中、肉を食べる必要もなかったから。だからこそ、それは衝撃的な価値観の転換でした。選択肢などない、過酷な自然。食べなければ死ぬ。その極限状態の中で、彼女は初めて「命をいただく」という行為を心から受け入れたのです。
マイナス50度の世界では、雑菌さえも繁殖できず匂いが消え、世界から色が失われます。だからこそ、春の訪れはこの上なく輝かしい。緑が芽吹き、白い花が咲き、黄色い花が咲き、虫たちが動き出す。「命が生まれることが、これほどまでに素晴らしいとは思わなかった」モンゴルから帰国した直後、成田からのリムジンバスの窓越しに見た桜のピンクが、目に突き刺さるほどの鮮烈さで、彼女の心を揺さぶったといいます。
「モンゴルでは、目に見えないはずの風が見えるんです。空気が凍り、音符のように踊る空気を見ていると、死ですらすぐそばにあると感じます。そうすると、些細なことなんてどうでも良くなる。生きてさえいればどうにかなる。ほんの少しの大切なものがあればいい、そう思えるようになったんです」
そう語る亜衣子さんの澄んだ眼差しは、無数の命とダイレクトに向き合ってきたからこそ辿り着いた、揺るぎない強さを物語っていました。
絶望の淵から生還した彼女が、なぜ再びモンゴルへ向き合い、そして西麻布の地で鮨屋の暖簾を掲げるに至ったのか――。
次回、彼女が命を注いで形にした「TANILAG(タニラグ)」の物語を紐解きます。
Profile:香林 亜衣子|AIKO KORIN
カシミヤブランド『TANILAG(タニラグ)』代表。モンゴルでの過酷な遊牧生活という異色の経歴を持ち、繊維の専門家も驚嘆するほどの深い素材知識と審美眼を持つ。現在は東京・西麻布『鮨 こうりん』の女将を兼任。ジャンルを超え、自然の恵みを最高の形へと昇華させる「ものづくり」の美学を追求している。
TANILAG(タニラグ):https://tanilag.jp

『鮨 こうりん』
〒106-0031 東京都港区西麻布1丁目12-6 ダイアンクレストビル4階
営業時間:17:30〜23:30
定休日:水曜
電話:03−6434−0084
メール:sushi.korin@gmail.com
HP:https://sushikorin.jp
Instagram:https://www.instagram.com/sushi.korin
text: 石原愛子
photogragh: 吉川綾子
